山口敏郎展 - 雨は見えるか?-

 山口敏郎展 - 雨は見えるか?-

雨の形を切り取れるか?
雨は刻々と変化している「今」という瞬間の積み重ねである。
絵の具がキャンバスに流し落とされ、瞬間瞬間に変化が起き続けていく。
ただそれに身をゆだねてみる。すると自分でも予見できなかった世界が立ち上がってくる。

山口敏郎

スペインに37年間在住されている山口氏のスペインに行かれた経緯などを気軽にお聞きになってみられませんか。 皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。

   Gallery EM  西村江美子

<作家プロフィール>
1956 岡山県生まれ
1978 武蔵野美術大学卒業
1982 マドリッドに移住する、ESPACIO TAO 主宰

無限雨 山口敏郎
今回の展覧会のテーマは「今」である。
しかしそれは「今」というものを表現するというよりは、表現しているという行為自体が手段ではなく目的そのものになっていることである。
このことはここ数年以前から漠然とは判っていたが、それがはっきりと自分の中で腑に落ちたのはこの春の日本での滞在中だった。
その時、私は山門の前の苔むす太鼓橋に立っていた。山門越しの木立の間に禅寺の本堂が霞み、湿り気を帯びた空気を通して声明(お経)が聞こえてきては草の匂いに消えていく。ふと気づくと足元の池に波紋が広がっては消え、水の下では鯉の色が流れ、蓮の上に水滴が玉となって踊っている。
「雨だ。」
だが、本当に雨は見えているのか?
雨の形を切り取れるか?
川や雲はどうか。その全体を直ちに提示出来るか?
いくら瞬間瞬間の写真を何万枚撮ってもそれは「雨」ではない。
「雨」と分かるのは、その現れては消える連続性によってであり、今の直前と直後があって雨と認識できる。変化が判然し易い雨や川の場合はこのことが理解できる。
では絵や小説などはどうか?
たしかに絵や小説は一見すればキャンバスの上の唯の絵の具の染みであったり、紙の上の文字の羅列にすぎない。それだけでは、それらの絵や小説の意味する全体を一瞬で捕まえることは不可能である。
そこに現れていく色や形あるいは文字を追っていく時間を通して絵となり物語となっていく。それらを追っていく時は一瞬一瞬であり、意識はすぐに次の瞬間に移っていく。
その瞬間自体には意味を見出すことは出来ない。ポジティブでもネガティブでもなく、ただありのままの現実があるだけだ。
そして刻々と移っていく時間とともに自分の頭の中に、絵や小説の全容が現れていく。
目の前で変化していく個々の意識が結びつき、過去に蓄積された潜在意識にその意味するものを見出し、絵や小説として認識される。
存在することは変化であり、変化することによって世界は存在する。
雨も刻々と変化している「今」という瞬間の積み重ねである。
言い換えれば変化しているから時間が認識できる。
一瞬前に過ぎ去った音、今この瞬間に鳴っている音、そしてこれから聞こえてくる音が心の中で一体となってメロディとして「存在」する。同様に人生も正にこうして出来ていく壮大なメロディであり、「雨」であり、瞬間を生きている積み重ねの「時間」である。生きることは一瞬一瞬目の前に現れてくる世界といかに言葉という固定観念を外して対峙していくかということだろう。最初から言葉で、「これは絵、これは雨。」とレッテルを貼った瞬間、感覚はストップしてしまい、本当の意味でその人にとって「絵」も「雨」も存在しなくなる。それは単に世界を個々に区別しているだけなのだ。
同様に、もし何かをイメージしてそれを表現する目的で色をぬったり線を引いたりするのはその行為している「今」という瞬間が手段になってしまい、本当の意味で「今」を生きていないといえる。色が塗られる、線が引かれているその瞬間瞬間に変化が起き続けていく。ただそれに身をゆだねてみる。すると自分でも予見できなかった世界が「存在」してくるのだ。
今という一瞬は固定された今ではなく、永遠に変化し続けることにより世界を存在させる今である。
変化が止まる時、つまり時間が無くなる時、世界も無くなるに違いない。